コラムあるいは雑文

シスターになりたい?    - 05/07/13 -

引き続き、「薔薇のミルフィーユ」についてです。今回は「白薔薇の物思い」。

白薔薇は、まったく平和で(笑)、平和すぎてお話が作れない・・・なんて作者が考えているかどうかは解りませんが、ページ数も少なくてちょっと物足りない気もします。
兄の登場には驚きましたが、拉致されそうになった志摩子さんを助けようと、果敢に敵(誤解ですが)につかみかかる乃梨子ちゃんはかっこ良かったです。
それはそれとして(笑)、このエピソードで一番印象的なだったのは、志摩子さんの「わかりません」という台詞です。

シスターになりたいか?

この問いに対して、以前なら答えは決まっていたはずなのに出て来た言葉は「わかりません」という言葉。
もちろん、信仰心が薄れたという意味ではありません。
そもそも、「なぜシスターになりたかったか」ということを考えてみます。
志摩子さんは、寺の娘です。小さい頃から接してた仏教に対してもそれなりに愛着はあったはずで、「仏教が嫌いとか親への反発から別の宗教に走った」ということではないはずです。性格的にもそういうタイプではないでしょう。
志摩子さんとカトリックの出会いがどんなものだったのかは解りませんが、まじめすぎる志摩子さんは、寺の娘という立場のまま他の宗教を信仰すること自体に罪の意識を感じていたはずで、そういうことから、若くして(笑)家を出る決意をしたわけです。
そう、「シスターになる」というのは「家を出る」ということと同じだったわけです。
普通なら、別に信仰する宗教が何であってもそれを理由に「家を出る」必要はありませんが、たまたま寺の娘に生まれた志摩子さんにとって、宗教的に宙ぶらりんの状態は、どちらの宗教に対しても罪の意識を感じてしまい「信仰心をとるか、家族をとるか」の二者択一にまで自分を追いつめてしまったのでしょう。
ですが、現在の志摩子さんはたくさんの友人たちのおかげで、こころに余裕ができ「すすむことができる未来は意外とたくさんあるものだ」ということに気付いています。
別に親に「寺を継げ」といわれているわけでもありませんし、家を出るにしても様々な方法があります。信仰を続けるためにとれる道が「シスター」しかないわけではないことに気付いたのでしょう。
だから

わかりません

なのです。いまでも、一番なりたいものはシスターなのかもしれません。でも、祐巳と由乃さんと山百合会の仕事をしたり、乃梨子ちゃんと仏像見学したり、文通相手からは外国の話をたくさん聞かされ(笑)、楽しいことはいっぱいあって、「ちょっと大学に進学して勉強してみようかしら」とか「卒業したら一人暮らししてみようかしら」とか「海外留学もいいかも」ぐらい考えているかもしれません。すでに、急いでシスターにならなければならない理由はないのです。

前回に引き続き、妄想にどっぷりつかった私の想像でした(笑)。
2005/07/14 13:41:23〔投稿者:韓子温〕
「わかりません」は印象深いですね。
思うにそれは、志摩子さんのお父さんの言うところの「宗教とは何たるか」を知ったという事だと思います。
修学旅行でローマのバチカンにも行きましたし、何か感じ取ってきたのではないかと。
2005/07/16 02:30:15〔投稿者:管理人〕
志摩子さんは「もっといろいろな経験を積まないと『宗教の何たるか』などは解らない」ということ悟ったのかなぁ・・・。
私自身、儀式的なもの以外、宗教には縁がなく、熱心に信仰している人たちの気持ちはあまりよく解りません。
ただし、仏教に関しては「より深く宗教を考えている人」ほど儀式的なものから遠ざかり、放浪とか世捨て人みたいになるような気がします。
逆に、「寺の住職」に収まれる人は、それを「職業と割り切れる人」のような気がします。
お経を唱えている人よりも、志摩子さんの兄のような生活をしている人の方が、「宗教人」って感じがしてしまうんですよね。志摩子さんは「一応がつく」といってますけど(笑)。
2005/08/17 10:52:52〔投稿者:バルミラ〕
 当人も「反動かしらね」(『チェリーブロッサム』p59)と言っていますし、「寺の娘」をやめる為にシスターになりたがった面はあるんじゃないかと思います。ただ、だからと言って仏教自体を否定しているとか、親が嫌いだとか、そういう事ではないとも思います。
 「マリみて」には美少女が多く出てきますが、その大半が程度の差こそあれ、他人から期待される自分と自然体の自分とのギャップに苦労しています。特に志摩子の姉である聖はこの傾向が強かったと思います。
 志摩子の場合、容姿が西洋的なので、彼女が寺の娘だと言われれば大抵の人は違和感を感じるでしょう。一方で「シスター志望です」と言われれば、妙に納得するでしょう。感受性が優れている志摩子は、そういった他者の気持ちを感じてしまい、自分が「寺の娘」である事が、何かいけない事のように思い込むようになってしまったのではないかと推測します。
 現在の志摩子は、祐巳や乃梨子によって自然体の自分を肯定され、周りの期待する自分にならなくてもいい事がわかったので、本当の意味での自分の意思で、自分の未来を決められるようになった、あるいは決めなくてはならなくなったのだと思います。
 その線で行くと志摩子がとりあえず、「シスターになりたいかどうかわからない」と考えるのは正しい事だと思います。これまで「なぜクリスチャンか」「なぜカトリックか」という事を語ってこなかった辺り、志摩子はやはりシスターになる為にカトリック信者になったのでしょう。本来、修道者という生き方は信仰の延長としてなるものである事を考えると、本末転倒です。ただ、きっかけはどうあれ、今の志摩子はクリスチャンとして真っ当な信仰心を持っているのでしょう。逆にだからこそ、信仰の仕方として修道者になるのが正しいか、あるいはカトリックでいる事が正しいかという事をきちんと考えるようになったのだと思います。
 推測で色々と書いてきましたが、どれだけ当たっているかは定かではありません。なにしろ志摩子というキャラはこちらが掴もうとすると、するりとすり抜けていってしまうような所あります。今回いきなり実兄が出てきた事もそうでしょう。そういった意味では志摩子こそが「わかりません」。
 もっとも、それは初めからの事なので今更文句を言うような事でもありません。それに、志摩子の魅力はむしろその「わからない」所にこそあると思います。だから、これからも「わからない」事を楽しんでいくつもりです。
2005/11/12 02:10:51〔投稿者:kurusuno〕
 「寺の住職」に収まっている人で、大学の教授という立場を取っていらっしゃる方を知っています(仏教系の学校なので)。元々全く別の分野(理系の会社、パイロット等)の仕事に従事していて、跡を継がなくてはという事で仕事を辞められて…とか。志摩子さんのお父さんがどういう経緯で住職をしているかは定かでは無いですが、自分の職業上の同僚については色々と知っているでしょう。ただ、志摩子さんはそれを知っているかどうかは分かりません。
 また、キリスト教徒から仏教徒に宗旨替えした方とかもいらしたり、外国では「キリスト教には限界がある」といっている偉い教授さんがいたりするらしいです。しかも、「神学者」と「宗教家」は全く別者でもあります。(学問としてとらえる事=書かれている事を疑って掛かる事と信仰としてとらえる事=疑う事無く信じる事)
 原作での志摩子さんには「敬虔なクリスチャン」「シスター志望」という一般の人から見れば「わかりにくい」設定があって、作中の人物もそういった背景があるからこそ「わからない」人として見ているように思います。ですが、志摩子さんは美しいから孤独なのではなく、分かりにくいから孤独なのでもないと思います(一因ではありますが)。もっと、根本的な問題がある気がするのです。
 個人的に、志摩子さんのお父さんが「宗教の何たるかを分かってない」と言ったのは、「勘当してくれ」と言ったからだろうなと思います。もし、「シスターの道を歩みたいので、それなりの学校に通わせてくれ」だったら、止めなかったと思うのです。
 志摩子さんはひとつの事に集中すると視野の狭い所が見受けられます。私は個人的な類似性を感じることが多いのですが(特に思考的な面で)、意外と指摘されません。これも、志摩子さんの背景が「わからない」部類に入っている影響だと思います。
 「白薔薇の物思い」の前から、志摩子さんが最終的にシスターにならないという選択をするかもと思っていたので(大学の神学部に進んだとしても)、今回の「わかりません」は非常に納得の出来る解答でした。そういう揺らぎを認められるくらい、人が大きくなったというか(笑)。
<仏教に関しては「より深く宗教を考えている人」ほど儀式的なものから遠ざかり、放浪とか世捨て人みたいになるような
は、禅宗のお坊さんに多いですね。エピソードとか読むと凄いです(笑)
2005/11/13 02:02:44〔投稿者:管理人〕
ようこそ、kurusunoさま、コメントありがとうございます。
私の時間的な都合で、すべてのコメントにレスを付ける余裕がありません。どうか、ご了承くださいませ。
確かに、志摩子さんの視野は狭かった(過去形)と思います。乃梨子ちゃんが志摩子さんの視野を大きく広げましたよね。
その広がった視野には「まだまだ知らないことがたくさんある」ことが見えていて、志摩子さんにはそれが新鮮でたまらないのだと思います。
最近、白薔薇は平和で(平和であることはとてもいいのです、紅薔薇さんたちはいろいろつらそうでたいへん)エピソードが少ないのがちょっと残念です。