マリみてTT:コラムあるいは雑文(2004年11月)

月別(コラムを月ごとにまとめて表示します)

リリアンの校則    - 04/11/20 -

マリみてDB掲示板で「リリアンの校則」について何度か話題になったことがあります。
私は「リリアンの校則は厳しくない」と想像しています。
「歴史のあるカトリックのお嬢さま校」というだけだったら、厳しい校則がたくさんありそうな気もします。もっとも、本物の「お嬢さま校」の校則がどんなものか知りませんけれど(笑)。
(さらに言えば、大昔、卒業した出身校の校則しか知りませんから、世間の校則がどの程度なのかも解りません)

例えば「無印」(16ページ)で「(スール制度のおかげで)特別厳しい校則がなくとも、リリアンの清く正しい学園生活は代々受け継がれてきた」とあります。
リリアンの校則がうかがい知れる記述を捜してみますと・・・
特別厳しい校則がなくとも(「無印」16)
アルバイトは原則禁止、許可を取れば可能(「いばらの森」81)
以前、性風俗でバイトして即日退学になった生徒がいた(「いばらの森」82、「いとしき歳月」107)
ただ男性とおつき合いしているだけでは、停学にもならない(いとしき歳月」125)
制服改造なんてしている不届きものは存在していない(「チェリーブロッサム」15)
白ポンチョのフリフリ、そうしちゃいけないとは書いていない(笑)(バラエティーギフト120)
携帯電話は学校には持ってきてはいけないことになっている(「特別でないただの一日」のあとがき193)
といったところでしょうか。
バイトは原則禁止だが、男女交際は禁止していない。
制服の統一感からも、細かい決まりは一応あるのでしょう。
他にも、ロザリオを別にすれば装飾品のようなものは、だれも付けていないようです(せいぜいリボン)。
髪型は自由のようです(縦ロールとか、笑)。
でも、金髪や茶髪はいないようです。
バイク通学はいない模様(自転車通学はある)。自動車通学は禁止。ただし、高等部在学中に免許を取ることと、校外での使用は禁止してはいないと思われます。
聖さまは普通免許を取りましたし(運転していましたし)。
携帯電話については、持ち込み禁止以前に、そもそも主な登場人物のだれも所有している気配すらありません。「マリみて」の世界では「高校生にはそれほど普及していない」という設定になっているものと思われます。
作品が生まれてから、もう何年も経っていて、世間の事情も変わっています。いまさら、変えられませんからしかたないでしょう。

やはり、リリアンの校風から見ても「それほど細かく規定してはいない」のではないかと思います。「白ポンチョにフリルを付ける」ような生徒が現れても、規則を追加したりはせず、「やんわりと注意する」だけなのでしょう。
少なくとも、生徒の自主性を重んじる高等部では、学校側による厳しい取り締まりは行われていないでしょう。「校門で定規を持った生活指導の先生や風紀委員が待ち構えている」なんて風景はリリアンには似合いません。
それは、上級生(姉)の役目です。
2004/11/20 23:05:54〔投稿者:くりくりまろん〕
確かに授業中に携帯のメールをカチカチ…というのはもう、作品の中では想像し難いですねぇ(笑)。ただ、初登場時の乃梨子はインターネットを操って自分の好きな世界をひろげていて、作品が書かれた頃の女子高生としては随分進んでいたと思います。個人使いのパソコンからメールをプリントアウトなんて。そのころのパソコンの価格は相当なものです。
スール制度については校則ではなく、さらに不文律による強制ですらない(蔦子さんのように姉妹関係に入らない自由もある)というのはマリみての世界の中でとても大切なことではないかと思います。それだけ個人の意思が尊重されているのでしょうね。
2004/11/21 20:56:58〔投稿者:バルミラ〕
カトリックの学校だから逆に厳しくない、と考えるべきかもしれません。普段から(厳しい)聖書の教えを聞かされていれば、明文化された規則がなくとも何をやってはいけないかは、自ずと判るもの。また、指導する側(主にシスター)も神の権威があるので、さほど校則に頼らなくてすむのでしょう。
2004/11/22 08:42:07〔投稿者:クライバー〕
 あくまでも原則論ですが、同じミッション系の学校でも「カトリック」と「プロテスタント」では校風はまるで違います。バルミラさんには悪いのですが、自由な校風が多いのは、圧倒的に「プロテスタント」系でしょう。アメリカの宣教師によって広められたプロテスタントは、例えばお祈りの後に十字を切らないなど、ローマ・カトリック主義への反発もあって、規則で教徒をしばらない主義をとっています。
 プロテスタント系の女子高では、「校則なし」を謳っているところも多いですし、制服のない学校もプロテスタント校に多くみられます。一方の「カトリック」ですが、カトリックは規則には厳しいです。それを反映し、制服や頭髪などの身だしなみは勿論、ルーズ・ソックス禁止、携帯電話持込禁止、持ち物検査も定期的にあるなど、カトリック系の女子高は校則も厳しい。進路指導の際にはネックになる場合もあるようです。
 
 繰り返しになりますが、上記はあくまでも原則論です。学校名を挙げるは避けますが、カトリック系であっても比較的自由な校風の学校はあります(逆にカトリック校なみに厳しいプロテスタント校というのは寡聞にして知りませんが)。偏差値の高い学校に多いようですが、とはいえそういう学校は少数派で、「カトリックは校則が厳しい」が私立校志望の女子中学生の合言葉です。ですから、リリアンはプロテスタント校並みに校則のゆるやかな数少ないカトリック校のひとつ、といえるでしょう。
 しかし、現実に照らして考えると、祥子さまのあの長髪はちょっと問題ありかなと思えます。例え校則に頭髪に関して明記していなかったとしても、おそらく志摩子さんレベルでも教師から「紐で結びなさい」と言われるはずです。確かカトリックの教義の中に、髪の長い女性につて批判的な一文があったと思いました。ヨーロッパの民話でも、「髪の長い女は考えが浅い」と随所で出てきます。まして、祥子さまは生徒会幹部なのですから、周りからの反発は免れ得ないでしょう。
 創作物に出てくる現象は現実との差異の中で「それはどういうことなのか」と考えると深みが増すのですが、祥子さまの超ロング・ヘアーが許容されていることについてのフォローは難しいですね。少なくとも私には、例えば小笠原家が学校に多額の寄付をしているから誰も文句を言えないとか、そんな下世話な想像しかできません。「リリアンの校則=今野先生」ですから、こればかりは何とも・・・
2004/11/22 20:20:32〔投稿者:バルミラ〕
 微妙に話が食い違ってしまったような。私としては(現実にどうかは知りませんが)カトリックなら明文化された規則がなくても厳しく出来るんじゃないか、という意味で書いたつもりだったんですが。校則と校風の区別が人によって違うのかもしれません——そう言えば、厳しい校風って言い方はあまりしませんね——。
 それはともかく、リリアンがあまりカトリック的でないというクライバーさんの意見には賛同します。「生徒の自主性を重んじる」からして、むしろプロテスタント的でしょう。
 ただ、プロテスタントと一口で言っても色々ありますし、カトリックもここ半世紀ほどでかなり変化していますから、簡単には言えません。カトリックも昔ほど窮屈なものでもないような気もします。
 もっとも今の教皇は異教徒や他宗派との対話には熱心ですが、教義にはむしろ厳しい人らしいです。実際、同性愛に対してはかなりきつい事も言っているようですから、やはり「マリみて」は(宗教的には)ファンタジーとして考えていた方が無難だとは思います。
2004/11/24 12:54:32〔投稿者:クライバー〕
 そうでしたかー。それは失礼いたしました。
 同性愛に関してはプロテスタント、カトリックの別なく厳しく対応してますね。あと、プロテスタントは中絶についても煩いですよね。
 「マリみて」が「宗教的にはファンタジー」はファンには暗黙の了解じゃないでしょうか(別に暗黙じゃなくてもいいですけど)。福沢家にしても兄弟でミッション系と仏教系の学校に通っているわけですし、あれだけ伝統のあるミッション・スクールであるにも拘わらずリリアンて信者の生徒はむしろ少数派な印象です。本編でも熱心な信者って栞さんくらいしか登場してませんし、宗教に対して熱心な栞さんに対するリリアン生徒の目も珍しいものを見る感じですよね。勿論、裕巳以下、生徒たちのマリア様に対する敬意には感服するものはありますが。
 古いマリみて・ファンには有名なエピソードですが、もともと今野先生が「マリア様がみてる」を執筆するきっかけとなったのは、ラノベ作家仲間との「キャッチーな決めゼリフがないか」との雑談の中から「マリア様が見てるから」という台詞を今野先生が思いついて「それいーねー」ということになった経緯があります。ですから、最初は宗教とはまったく関係ないところから始まったわけなのですね。でも、「マリア様が見てる」というのを決めゼリフみたいにして使うにはミッション系の学校を舞台にするのがベターですから、どうしても宗教は絡んできてしまいますね。そう考えると「マリみて」は宗教的要素を結構上手く扱ってると思います。
 それだけに、乃梨子や志摩子の悩みはちょっと作品の中で浮いてしまった感じがあります。あれだけ宗教的には自由(というか自覚無さ過ぎ・・・)な校風のリリアンであるにも拘わらず、あれだけ悩むというのは有り得なさ度高いですよね。聖と栞のエピソードが逆に感動的だったのも、そういった作品のカラーがあってこそだと思います。
 で、リリアンの校則ですが、きっと禁止事項は劇的に少ないと想像します。作品中に携帯電話が殆ど現れていないことから「携帯電話の持込禁止」はあるとして、「ルーズ・ソックス禁止」もあるかな。リリアンは幼稚園から大学まで揃っていながら、高校からの中途採用も行っていますので(中・高での採用を行っていない一貫教育の学校もあります)、リリアンは結構なマンモス校ということもあって乃梨子のようにリリアンのシステムに疎い生徒や、風紀に対して無頓着な生徒も高校からかなり入学して来ると思われます。ですから「生徒の自主性」云々という校風の中、生活指導担当教師のお世話になる生徒が目に付かないリリアンは本当に凄い学校ですね。
 ですから、「マリみて」は校則的にもファンタジーと捉えるのが妥当なのではないでしょうか。
2004/11/25 22:57:30〔投稿者:朱夏〕
校則ですか…。少々難しい点を色々含んだ問題ですね。
今もコメントを書こうと思いながら、色々と頭の中が整理できないままでいます。
だた気が付いたことを、以下に少々。
・やはり「マリみて」は、ファンタジーだと言うことに尽きるのではないでしょうか。今野先生はリリアンを通して、理想的な学園「乙女の園」を描きたかったのでは。やっぱり無粋な校則は、あまりお話しに出て来ない方が美しいですよね。
・それでも、生徒会の自主運営とスール制度」に対して、校則とはどの様につじつまが合うのか、いろいろと疑問や想像が果てしなく湧いてきます。(これは何処かで、別個に話したいテーマです)
・「マリみて」は、ミッションスクールが舞台ですから、ある程度、宗教上の問題は避けて通れません。しかし私は「宗教上の問題」より、日本独自のミッションスクールの歴史がたどった「女学生文化史的側面」をより重視しています。(これも、別テーマにすべきですね)
・ある作家さんが何処かのインタビューで、「良くできたお話しは、作者の意図を越えて世界が広がってゆくし、その過程で、いろんな事が作品自らつじつまが合ってゆく」と話されていたことがあります。その想像上の広がりがまた、読者の共感と新たなストーリーを生んでゆくのですが、ファンとして一定の自覚は必要かと思います。つまり、生真面目にその世界を追求するあまり、作者の意図以上に設定を掘り下げても、ある限度を越えてしまうと空しくなる恐れがあるという点です。(などと、偉そうなことは言えない自分ですが、笑)
・携帯については、「マリみて」が舞台となった時代には、まださほど普及していなかった…と言うのが私の意見です。ちなみに「真夏の一ページ」の巻、「おじいさんと一緒」で以下のようなシーンが出てきます。140p〜145p、真美が自宅のPCからタクヤ君のHPを見る場面です。この一連の作業の最後に、真美は「一通り読み終わって、電話回線を切った(144p)」とあります。つまり、現在ほとんど普及したブロードバンドが、この時代にはまだ、ダイアルアップだった訳です。
なお念のために、以上の意見は、クライバーさんとパルミラさんの事を批判した訳では無いですよ。むしろすごく面白かったので、心当たりのある自分への反省を込めて書きました。
校則がテーマなのに、雑多な書き込みになってしまいました。いつもながら、ごめんなさい。
2004/11/26 13:52:03〔投稿者:クライバー〕
ごきげんよう。
 BBSでも良いかと思いましたが、一応こちらに。
 朱夏さまのご指摘、正に「痛いところを突かれたー」という感じです。
 良くできたお話しは、作者の意図を越えて世界が広がってゆくし、その過程で、いろんな事が作品自らつじつまが合ってゆく」というお話は、極めると「主人公が一人歩きをし、自然にしゃべりだす」という作家の境地みたいな感覚にもつながる部分があると思い、興味深いところです。さらに「作者の意図以上に設定を掘り下げても、ある限度を越えてしまうと空しくなる恐れがある」は私もいつも気をつけているつもりではあるのですが、対象との距離感て本当に難しいんですよね。
 マリみてDBで「マリみて」の時代設定の考証を行ったとき、見事に今野先生からあとがきで突っ込みが入ってしまった(直接的には言及されておりませんでしたが、当時該当する活動を行っていたのはマリみてDBくらいしかありませんでした)こともあります。でも、別に設定やストーリーの矛盾点をいちいち提示して「なってない!」と指摘したいがためにデータベースやタイムテーブルを作っているわけではないですよね。中には批評=批判ととらえてしまう作家さんもおられるようですが。それにしても、度を越えてしまうのは自覚的に避けなければならないポイントですね。
 尤も、作品自体に魅力がなく、取るに足らないものなら誰も見向きもしないわけで。
 いずれにしても、朱夏さまに戴いたコメント、ありがたく頂戴させていただきます。
 あっ、テーマが・・・
2004/11/27 00:48:05〔投稿者:いわし〕
なかなか流れを無視したコメントをしますが、やはり自分もワトソンさんと同じく特に厳しい校則やその取り締まりは無くて、正しい方向に導くのは上級生の役目…という感じだと思います。むしろ「廊下は走らない」とかそういう細かいマナー的な部分が厳しそうのか。(まぁ怒る訳でもなく「マリア様がみていらっしゃいますよ」なわけですが)
2004/11/28 21:07:38〔投稿者:でるもんた・いいじま〕
みなさまはじめまして、ごきげんよう。
教義ですが、他にも今野先生がカトリックの教義に疎いと思われる記述があります。
「(マリア像を観に、教会巡りするのもいいな)」(チェ120)という乃梨子の心情ですが、乃梨子以外の人が志摩子にそれを提案したら、志摩子は一喝するでしょう。なぜなら、「偶像崇拝の禁止」の解釈としてカトリックでは、聖人の像は、仏像のようにそれ自身に魂が宿るものではなく、天におわす聖人を想起する手がかり、と考えているからです。従って、学校にマリア像があれば、天におわすマリアさまを想起するにはそれで十分であり、他の場所を巡る必要はないからです。
逆に、今野先生は日本文化にはかなりお詳しいようで、「銀杏の中の桜」でも、雑誌掲載のときには存在しなかった伏線(江戸時代の「趣味のサークル活動」;チェ45)が追加されていますし、仏像関係の描写も詳しいものがあります。(チェ18、48-49、56、涼風24)
2004/11/28 21:44:54〔投稿者:でるもんた・いいじま〕
くりくりまろんさん:
「銀杏の中の桜」の当時の97年は、ちょうど私がパソコンを買った年でもあるので覚えているのですが、NECがDOS/V陣営の攻勢を受けて独自仕様から転換する前年です。確か、新品なら30万くらい、形落ち狙いなら20万くらいで買えたはずです。一家4人のために買ったけど結局は乃梨子しか使わず、そのまま菫子さんのマンションへ…というシナリオが考えられます。
クライバーさん:
それと髪ですが、「女の長い髪は名誉だが、男の長い髪はダメ」という趣旨の記述が、たしか旧約聖書のほうにあったはずです。いま手元にない(というか旧約は買ったり貰ったりしたことがないし、新約も4福音書と黙示録しかまともに読んでいない)ので明示できませんが…
ヨーロッパの民話も、もし西欧〜北欧のことであれば、あのへんはキリスト教以前からの神話や伝承が豊富なところですから、キリスト教とは別の起源ではないでしょうか。(イングランドあたりまでは早い時期にローマ帝国に浸食されてしまいましたが、そこから先はローマの手の及ばない辺境地帯です。)
2004/11/30 20:58:03〔投稿者:くりくりまろん〕
>クライバーさま 志摩子さんの宗教上の悩みが浮いて見えるということについては、まさに浮いていること自体に、本人は気づいてないけれども少し違ったところに悩みの本体があることが示されているのではと考えることもできると思います。そしてその悩みは、例えば乃梨子との距離の取り方を混乱させるようなものではなかったかと。表現上の工夫の一つとして宗教との関わりが据えられているという見方です。
でも一方、もし日本ではなくて文化的に一神教が強く根付いているようなところだったら、家庭での宗教と自らの信仰の違いが深い悩みになりうることは当然のこととして受け止められるのではないかとも言えます(ある方に指摘されてハッとしたことがあります)。
信仰心については正面からとりあげられることはないと思いますが、どちらに解しても志摩子さんにとっての宗教は極めて重要なものだし、作品の中でも叙情性のための飾りでは済まないものになっているのではないでしょうか。
題名についての今野先生のエピソード、そこからどんどん設定が拡大されていったのならすごい話ですね。
2011/08/02 01:26:33〔投稿者:Missi〕
Cheers pal. I do arppeictae the writing.
コメントの投稿は「こちら」

プール帰りの女の子たち    - 04/11/13 -

このコーナーは、もともと「週一回くらいのペースで更新しよう」と思って始めたのですが、思い付いたネタを「あまり長い間あたためてしまうと醗酵してしまいそう(笑)」なので、出し惜しみせずに更新してきました。(時間を置き過ぎると、考えが変わったり考え過ぎてわけ解らなくなったりするのです)
ネタのストックも残り少なくなってきたので(笑)、そろそろペースダウンしようかなどと思いつつ、やはり、醗酵しないうちに書いてしまおうと思い直し更新します。

「真夏の一ページ」の79ページで、「プール帰りの女の子たち」のエピソードがあります。OK大作戦の決行日、祐巳が自宅からバスで学校へ行くときの出来事です。
とても印象的ですてきなエピソードなので、私のお気に入りエピソードのひとつですが、同時に違和感も感じます。唐突な感じがするのです。
このシーンは、何かを暗示しているのでしょうか?
「略してOK大作戦(仮)」のストーリーの中に、このエピソードが存在する意味を読み解こうといろいろ考えたのですが、結局、私には解りませんでした。
82ページで確かに「(祥子さまに)先ほどの少女の姿が少しだぶって見えた」とあるんですが、「それが何?」という感じです(私の感性が足りないのだろうか)。
最近では、実はこれは「作者の実体験で、どこかで使おうと狙っていたのでは」などという想像までしています。
でも、このエピソードの前と後では「祐巳の心理状態」がかなり変化しているんですよね。
それまで作戦に前向きだったはずの祐巳が、このエピソードの後では「何となく後ろ向き」になっていて、祥子さまに会ってからは「祥子さまを騙す」ことへの後ろめたさから一歩も歩けないほどの心理状態にまでなってしまいます。
となると、やはり「祐巳の心理状態の変化のきっかけ」としてあのエピソードは必要なのだろうか。でも、なにがどうきっかけになるのか、解りません。
というわけで、結論は出ていません。

余談ですが、このエピソードで使われている「途中下車」という言葉は使い方が間違ってますよね。(「途中下車」とは、本来の目的地より手前で下車することです)
2004/11/13 12:05:00〔投稿者:くりくりまろん〕
(こちらでは)はじめまして。よろしくお願い致します。休日の土曜の朝にマリみてについて考えるというのは爽やかなものですね。//これは「昔の自分もそこにいるよう」な題材であることから、どちらかというと解釈というよりは、読んでいるそれぞれが自由に連想を働かせることで物語の幅がでてくるように描かれたシーンではないかと思います。//ただ敢えて言うならば、祐巳が現在生きている現実の世界は、リリアンや花寺の人たちで賑やかな生き生きした世界です。そこから離れ、少し退行することで祥子の心に最も寄り添う、といった終盤での祐巳の姿につながっていったのではと考えます。デリケートな問題なので皆でワイワイとやっているところでは見過ごしてしまう点があるのではないだろうか、と思われるところです。//「作戦」というのは祥子のためを思って皆が動くという罪の無いものなのです。しかしそれでも、曝露的で乱暴なものではないかという疑問を祐巳は感じていったのではと思います。祥子は強い人なので少々のことでは傷付かないかも知れません。しかし、幼子に対するような気持ちで祥子の男嫌いという問題は大切に扱わねばならないとも言えます。祐巳の迷いというのは優しさの表れなのでしょう。そのような意味で心理状態の変化のきっかけとして捉えられると思います。//特に報われることはなくとも、義務感やら責任感やらで必要なことを一人で頑張るというのは、祥子の姿に良く重なります。そしておそらく、祥子のそのような性質は随分昔からのものなのでしょう。さらに深読みすれば、緊張を解くことができないという姿勢は男嫌いの症状にも少し関係があるようにも思われます。より幅のある祥子に対する祐巳の理解が、プール帰りの女の子の姿に仮託してなされていったのではないでしょうか。
2004/11/13 13:31:29〔投稿者:バルミラ〕
難しいですね。感覚的にはつかめるけど、口では説明しにくいというか。ただ、この前後だけ見てるとかえって解からなくなるような気がします。ここまで(あるいはこれ以後)の祐巳と祥子の関係を含めて考えた方がいいかもしれません。例えば『ウァレンティーヌスの贈り物(後編)』89ページ、「それにしても祥子さまって、幼稚舎の頃から戦っていたんだ。(中略)自分はただ、のほほんと暮らしていやしなかっただろうか。(後略)」の部分。祐巳はこういった記憶から、「自分=居眠りをしている子(の一人)」「祥子=睡魔と戦っていた子」と(あるいは無意識に)連想したのではないでしょうか。
2004/11/13 16:42:03〔投稿者:kuro〕
えーっと、まず例の女の子はグループの中でどんな風に見えるでしょうか?。一番しっかりしていて、優しくて、一番「お姉さん」に見えますよね。一応p82以降になりますが、祥子は祐巳のためにタオルをかけてくれます。この行為はさっきの女の子の献身的な姿と更に重なってこないでしょうか?。祐巳にしてみれば、まさか妹がとんでもないはかりごとを企てているともつゆ知らず、自分の為に献身的に世話を焼いてくれる優しいお姉さま・・・・一歩も動けなくなる訳です。
2004/11/14 02:48:58〔投稿者:管理人〕
みなさま、コメントありがとうございます。くりくりまろんさま、ようこそいらっしゃいました。
いろいろな見方があるようですね。とても参考になりました。みなさまのご意見では「祐巳が女の子に祥子さまを重ねて見ていた」ということが共通しているようですね。
2004/11/14 04:01:22〔投稿者:いわし〕
作者の実体験を載せようと狙ってたと言うのだったら「真夏の1ページ」というのは最高のタイミングですよね。真夏のバスというのがイメージできて素敵なエピソードだと思います。祐巳の心境の変化ですが単純に状況の変化によるものとも取れます。「祥子さまに実際に会ったら急にいたたまれなくなって嘘がつけなくなっちゃった」と…。
コメントの投稿は「こちら」

ツーショット写真は無い?    - 04/11/09 -

「特別でない〜」で、可南子ちゃんが祐巳とのツーショット写真を得るために、とてもそれに見合うとは思えない苦労をしました(笑)。夕子さんとの誤解が解けたいまでも、はたして欲しいのかどうか・・・は、とりあえず横において。

今回のテーマは、その「ツーショット写真」。
「背後霊の可南子ちゃんと祐巳が一緒に写っている写真」はたくさんあったが、すべて処分されてしまった(「レディ、 GO!」206ページ)。
はて? 本当にそれ以外に写真は無いのだろうか?
私の疑問は「涼風さつさつ」での「パン事件」のことです。
祐巳と可南子ちゃんが口論しているとき、蔦子さんはフラッシュをたいています。フラッシュをたいているからには、写真を撮っていると思われます。少なくともカメラは祐巳たちの方を向いていたはずです。
ケンカの真っ最中の写真とはいえ、「ツーショット写真と言えなくもない」と思います。それとも、蔦子さんはわざわざ可南子ちゃんをフレームアウトして祐巳だけを撮ったのでしょうか。

考えられるのは、「パン事件」の証拠写真とも言えますから、うかつに残しておくと新聞部に嗅ぎ付けられる恐れがあるので、蔦子さんが自分の判断で処分した。もしくは、祐巳と相談した上で処分した。ということだろう。
しかし、惜しかった。もし、このときの写真があれば「レディ、GO!」のラストはちょっと違ってくる。
「ツーショット写真が欲しかったんです。……祐巳さまと私の」
「何だ。それなら一枚あるよ」
「ほ、本当ですか?」
「ほら、あのとき、ミルクホールで喧嘩したときの写真、蔦子さんが撮ってたでしょ」
「……あのときの、ですか」
「今度、持ってきてあげる」
「いえ、そういうのではなくて…… その、もっとちゃんとしたツーショット写真が」
「いらないの?」
「いえ! そういうわけじゃ、いちおう、それはそれで欲しいのですけれど」
「じゃあ、こういうことにしない? 学園祭までの助っ人で、いい働きをしてくれたら……」
とまあ、こんな感じ(笑)。
(もうひとつ、問題の写真は、ふたりのどちらかが「完全な後ろ姿」だった可能性があるのですけどね。むしろ、その可能性が高そう。笑)
2004/11/10 18:19:56〔投稿者:朱夏〕
やはり可南子は、祐巳とケンカしている写真をもらっても嬉しくなかったと思う。(笑)
2004/11/16 01:28:12〔投稿者:kuro〕
えーっと、コメントが少ないとの事ですので(笑)。私も以前の写真を貰っても可南子は嬉しくないというか、かなり複雑な気持ちになるんじゃないかな、と思う。たぶん可南子は火星に行っちゃった人とのツーショット写真が欲しいのではなくて、目の前にいるちゃんと人格を持った人間である祐巳とのツーショット写真が欲しいんだと思う。
2004/11/16 01:28:35〔投稿者:kuro〕
あ、それと。ちょっと本編読み直してないんで詳しい所はわかりませんが、蔦子は二人を仲裁する目的でフラッシュをたいたんじゃないのかな?。それとも被写体として二人を見ていたのかな?。
2011/08/02 01:32:38〔投稿者:Colonel〕
That's more than senlisbe! That's a great post!
コメントの投稿は「こちら」

『無印』での祥子さまの気持ち    - 04/11/07 -

今回は、初心に返って(笑)『無印(初巻)』での祥子さまの気持ち(心理)に注目してみます。
祥子さまの本音は、祐巳への告白としてしか表現されていないので、それ以外のところでの本当の気持ちは想像するしかありません。
「マリみてTT」らしく(笑)時系列にそって、まずここから・・・
祥子さまは柏木さんに婚約することの本意を告げられるが、祥子さまは問題に立ち向かえずに先送りしてしまう。
「全面的に柏木が悪い!」というのがほとんどの読者の共通認識だと思いますが、柏木さん本人にしてみれば「お互い損の無い話で、断る理由など無いはずだ」と本気で思っているわけです(ホント、やなヤツだ)。
でも、祥子さまは祐巳に同じことをしてしまいます。
薔薇の館で、祥子さまは祐巳をスール宣言するが、祐巳に断られる。
祥子さまにしてみれば、「お互い損の無い話、断る理由なんてないはず」と思っていたわけです。
ちょっと前に、志摩子さんに断られたとは言え、「ごく普通の一般生徒が紅薔薇のつぼみからのスールの申し出を断れるはずはない」と、祥子さまも(他の皆さまも)思っていたでしょう。
ですが、祐巳は断ってしまいます(祥子さま大ショック!)。
祥子さまはなぜ断られたか、この時点では理解できていません。「見たところ、嫌われるどころか慕われているようなのに、なぜ?」という心境です。
この時点で、祥子さまが祐巳をどう思っていたかは、本当のところ本人にもわかっていなかったと思います。それよりもなによりも「シンデレラ」の問題をなんとかしなければならない状況だった。
そして物語は進み・・・
温室で、祥子さまは祐巳に「ロザリオを下さい」と言われるが、断る。
祥子さまは、このときになって初めて「薔薇の館で祐巳に断られた理由」を悟ったのだと思います。
このときの祐巳からの申し出「ロザリオを下さい」は、100%祥子さまを想っての言葉(祐巳にとっては損ばかり)であることを、祥子さまは理解しましたが、同時に「スールになりたいという気持ちから出た言葉ではない」ことにも気付いてしまいます。そして、そこから自分が「薔薇の館で祐巳に対して『柏木さんが祥子さまにしたこと』と同じことをしてしまっていたこと」に気付きます。
1年半前の自分が逃げてうやむやにしてしまったのに対して、あのときの祐巳は状況に流されず立ち向かい、そして今度は自分を助けようとまでしてくれている。
このとき祥子さまが祐巳から受け取ったのは「立ち向かわなければならない」という勇気です。ここで、祐巳の助け船に乗ってしまえば一時は楽ですが、結局は後で後悔する・・・今度こそ、立ち向かわなければならない。
覚悟さえ出来てしまえば、もう、勝負には勝ったようなもの。祐巳と祥子さまが(気持ちの面で)スールになったのはこのときからだと思います。
後夜祭で、祥子さまは祐巳に「これ、祐巳の首にかけてもいい?」・・・
このときの祥子さまは、祐巳に対する感謝の気持ちを素直に表現しています。もし、祐巳が「平凡な生活に戻ること」を望むなら(残念ではあるけれど)それでも良いと思っていると思います。
ただ、「私は祐巳とスールになりたい」という気持ちに「祐巳が応えてくれたら嬉しい」という気持ちでの申し込みだったと思います。

とまあ、祥子さまの気持ち中心に深読みしてみました。
(11/08:文章を一部修正しました。内容自体は変わっていません)
2004/11/07 09:06:08〔投稿者:いわし〕
なるほどなるほどー。柏木の件と重なるとは気付きませんでした。祥子さまは確かに体育館ダンス後の王子初登場の日にはまだロザリオを「賭けとか同情」でもらってもらおうとしてますものね。
2004/11/10 17:08:53〔投稿者:バルミラ〕
 はじめまして。中々面白そうな事をやっているので少し寄せてもらいます。第1巻の「祥子は自分が優にされて(泣くほど)嫌だった事を、無意識的に祐巳にやってしまっ(て泣かせ)た」という構図は読者の間でどのくらい認知されているのでしょうか。この事はシリーズを通して祥子というキャラを考える上で外せない事だと思うんですが。例えば「涼風さつさつ」で祥子が可南子に対していった事は、祥子自身にも帰ってくる事だと思います。彼女も自分の理想どおりの人ではなかったという理由で優を拒絶しています。逆に自分と重なるから可南子に怒りを覚えたのでしょう。そう言う部分が全然ない祐巳は戸惑うだけでしたから。ちなみに優と祥子のどちらが悪いとは現時点では言えないと思います。そもそも優の言った事が本当かどうかも怪しいものです。彼は本当は同性愛者でなく、未熟な祥子の為にわざと嫌われ役をやっている可能性もありますから。
2004/11/10 18:16:37〔投稿者:朱夏〕
なんとここにも、柏木擁護者が!>パルミラ様 「マリみて」ファン全員を敵に回して、「負けるな柏木同盟」でも作りますか。(笑) 考えてみれば、その生い立ちに難しい問題を抱えているのは、祥子だけでなく柏木も同じです。現在の小笠原の総帥は、きっと跡継ぎには祥子を考えているでしょう。しかし、その婚約者を送り出す柏木家の方では、全く違う思惑があるはずです。こんな環境で育った優は、幼くしてすでにコンツェルンのトップに立つ事を期待され、誰もがうらやむ美少女の許嫁がいる身分です。そんな優が、どうやって自分のアイデンティティーを表現したら良いのでしょう? とりあえず美しい婚約者に、「屁の突っ張り」で、「女に興味がない」ぐらい言ってみるしかなかったかも知れません。(そこがまた、柏木の馬鹿なところですが。) 「子羊たちの休暇」197p、西園寺家のパーティーでの柏木の言葉、「この場をぶっ壊してやろうか」はそんな彼の一面を見た気がします。私は、祥子にもっと心のゆとりが出来れば、柏木とは必ず和解できるはずだと信じています。<管理人様:趣旨違いのレスで、ごめんなさい。
2004/11/11 00:34:25〔投稿者:kuro〕
10/16 のコラムのでの私の何気ないコメントを受けてとの事ですみません。物議を醸し出してる張本人としては一応コメントをしておかねばという事で来ました(呼んでないって?)。とりあえず全体を通しての私個人の推察としては、(1)まず祐巳がロザリオを受け取らなかった事は祥子が祐巳に興味を持つ最初の接点だった。(2)祐巳の祥子に対する気持ちも、小笠原祥子という「人間」と直接触れ合う事・祥子の問題に深く関わる事で変化、或は成長していった。(3)最後の温室のシーンに於いては、祐巳のそういう部分もひっくるめて祥子はより深い所で自分にとっての祐巳という存在を認めていた。・・・ポイントだけをごく簡単にかいつまんで端的に言うとこの3点です。
2004/11/11 00:37:38〔投稿者:kuro〕
私も最初はワトソンさんとほぼ同じ見方で「無印」を捉えてましたが、一見ブラックボックスに見える祥子の気持や心の動きをシーン毎に細かくピックアップして繋げて行くと、実は二人の心のやりとりっていうのが呼応する様な感じで結構細かく動きながら物語が進行しているのが見えてくる感じがします。「無印」自体、基本的には「今野版シンデレラ物語+α」的な捉え方ができると思いますが、良く読むともう少し濃厚な人間のドラマが浮き上がって出て来る、ちょっと大袈裟に言うと「あぶり出し」みたいになってるんじゃないかと・・・。まあ単なるヨタ話と思って軽く聞き流して下さい。(本人の希望により一部編集:管理人)
2004/11/11 05:12:37〔投稿者:管理人〕
ようこそ、バルミラさま。
>「祥子は(中略)」という構図は読者の間でどのくらい認知されている
私としても、これは「深読み」の部類に入ると思うので、認知されているとは言えないと思います。
ただ、突飛だとも思いませんし、曲解でもないと思っています。
祥子さまは、このあと祐巳の影響をたくさんうけていきますが、この「無印」の祥子さまを、私は「祐巳の影響を受ける前の祥子さま」ととらえています。温室の件が最初の(大きな)影響です。祥子さま視点がほとんどないので、それが分かりにくいだけで、心のうちは(巻が進むにごとに大きく)変化しているものと考えています。
2004/11/18 16:31:53〔投稿者:くりくりまろん〕
祥子は祐巳の前に現れたときから、決して冷たいばかりの人ではないことは分かるけれどもあえて言うならば読者にとって「訝しいところのある人」なんですねぇ。祐巳を一方的に「妹」にしようとしたり、わざわざ銀杏の木のところまで追いかけに来たり。祐巳の祥子に対する興味と読者のそれは違うものなんだろうけれども、以後延々と祥子に対する興味というのは持続されてゆくように描かれていると思います。
コラムの趣旨から少し逸れるかもしれませんが、一方の祐巳は温室の場面では祥子の気持ちをたちまち了解しながらも、自分が祥子にしてあげたことには無自覚なままロザリオをもらっています。この無自覚さは祐巳の特徴として徹底していて、「特別でないただの一日」に至っても瞳子に対してしてあげたことにも全くの無自覚。その無自覚さが「レイニーブルー」の遠因の一つだったのではと思います。現在の祐巳は祥子に充分に受け入れられていると感じているのでしょう。しかし祥子が祐巳に影響を受けていることについては、祐巳はもしかすると全く知らないのかもしれませんね。
2004/11/19 04:04:12〔投稿者:管理人〕
音楽室での連弾、体育館でのふたりだけのダンス、どちらも祥子さまにとって「とても楽しい出来事」だったのですが、このときはまだ、祐巳は「賭けの対象」でもあったので祥子さまは自分の気持ちの気付いていません。
温室で「同情」でロザリオを望まれた時「ぜんぜん嬉しくない」と感じたことで、「私はこんなにも祐巳が好きだったのだ」と自覚したんだと思います。
祐巳の「無自覚」は大きな特徴だと思いますが、もうひとつ、「自分の勘をまったく信用していない」ということがあります。レイニーのとき「祥子さまに嫌われてた」などと考えるのも、「好かれているはず」という自分の感覚を信用していないので、自信が持てなかったからでは。
実は、祐巳は「とっても勘が鋭い」のです。ただ、それを本人は信用していない。だから「瞳子ちゃんに好かれているかも」という勘はビシビシ感じているのだけれど「そんなわけないじゃん、瞳子ちゃんが好きなのは祥子お姉さまのはず」と、無意識のうちに打ち消しているのではないかなと思います。
2004/11/20 10:37:54〔投稿者:kuro〕
なるほど今度はレイニー談義ですか、面白そうですね(笑)。『無印』における祐巳の祥子への想いは確かに真っ直ぐだったと言えると思いますが、しかしそこには自分に対する自身の無さやコンプレックスという感情も混じっていた事を見逃してはいけないと思います。その感情はレイニーに至る迄祐巳の中で居座り続け、形を変えていったのではないでしょうか。・・・自身が無いから不安になる、不安になるからただ離すまいと祥子にしがみつこうこうとする、しがみついているから周りが見えなくなるし自分も見えなくなる。ただしこれは祐巳だから特別という事ではなく、こういう負の感情のループというのには誰の身にも起こり得る事だとは思いますけどね(笑)。それよりも次巻『パラソル』で、そういう自分自身の姿と正面から向き合い自分自身を克服する事ができた祐巳に大きな拍手を送りたいと思います。
2004/11/20 10:39:44〔投稿者:kuro〕
一方祥子の方も、祐巳なら解ってくれる筈と、祐巳に完全に甘えてしまってる状態になってしまってた訳です。・・・そう、なかなかいい表現が見つかりませんでしたが、『無印』での祥子も祐巳に対してまさに「甘え」ていたという事なのだと思います。温室で祐巳がした提案は、逆に祥子に今自分がどんな顔をして祐巳の横で泣いているのかを見せてしまった・・何故なら(私の考察が正しいなら)祥子は祐巳が自分という人間に何を求め本当はどうして欲しいのかをよく知ってた筈ですから(p179〜のシーン.etc)・・・この話はもういいて?(笑)。まあ要するに祥子は『レイニー』に於いても全く同じ轍を踏んでいたのではないかと、私的には思う訳です。この時大切な物を失って初めて、祥子もまた自分自身を知り、それに対峙し、自分自身を責め続け、浮上する事もできないままあんなになってしまった・・・。たぶん祥子はこれ迄自分の目線からしか祐巳を見る事ができず、それで祐巳を理解したつもりになっていた。彼女はこの時初めて祐巳の目線まで降りていって祐巳を、自分を見ようとしたのではないでしょうか。
2004/11/20 10:40:21〔投稿者:kuro〕
この時の二人の関係は、ただお互い寄りかかり依存し合う様な、ある意味非常に危うい関係だったと言えるかもしれませんね。瞳子の事や祥子の祖母の事は単なるきっかけにすぎず、仮にそれがなくてもいずれは似た様な状況に陥っていたのではないかとも思います。しかしまさに『レイニー』、雨降って地固まる、試練を乗り越えた『子羊』での二人は非常に深い所でお互いを尊重し合い慈しむ様な、ある意味「理想的」とも言える様な強い絆を見せつけてくれています。祐巳と祥子の関係を描いた物語は、実は『子羊』をもって一旦完結してるのではないか等と自分的には考えたりしてます。・・・とまあ、これはあくまでkuro個人から見たレイニー考ですので、『無印』も含め結局は十人十色、その人その人の視点で読むのが一番だと思います。ただ、まあ世の中にはこういう読み方をしてる奴もいるよという事で見て頂ければと思う次第です。
コメントの投稿は「こちら」