話題に乏しい時期のようなので、小ネタをひとつ(といっても長いのですが)。
瞳子視点の記念すべき第一作、しかも一人称といえば、『ジョアナ』ですが。
実は、この世のどこかに幻の『三人称ジョアナ』があった、と言ったら、どう思われますか?
種明かしをすれば、今野氏が最初は三人称で『ジョアナ』を書き始め、途中で一人称に切り替えた可能性が高い、というだけのことなのですが。
『マリみて』の三人称の地の文は、「一人称的」三人称体とでも言うべきものです。しかしあくまで一人称「的」であり、本来の一人称とは微妙に異なっています。
主人公のフルネームをどのようにして登場させるかといった細かいことからはじまって、語彙の違い、文末表現の違い、心理描写の後に「〜と思った」と付けるか否かなど、精査すると一人称体と三人称体の違いはいくつも見つけることができます。
最も手っ取り早い見分け方は、一人称の「私」の部分に主人公の名前をあてはめて読んでみることです(三人称のパートはその逆)。違和感を覚える箇所があったら、そこが一人称体と三人称体の分かれ目です。
例えば、『ロサ・カニーナ』の167頁2行目〜3行目の「私」を、「祐巳」に置きかえて書き出してみます。
で、祥子さまに叱られるのが嬉しい祐巳はマゾだから、相性はピッタリ。―って、祐巳ったらいったい何考えてんだろ。
ずいぶんブリッコの祐巳ですね。て言うか、これ、三人称体になってませんよね。
もうひとつ、『いばらの森』の273頁9行目〜10行目を、「聖」にかえてみましょう。
栞を失った傷は深くて大きいけれど。聖を理解しようとしてくれる誰かが、聖の側にいてくれることは、聖をどんなにか慰めてくれることだろう。
読みづらい上に、くどいです。
一般に、三人称→一人称への読み替えはスムーズに行われることが多いのですが、その逆をやろうとすると方々で引っかかる、というのが、経験則の教えるところです。
以上を踏まえて、『ジョアナ』の地の文の「私」を「瞳子」に置きかえて読んでみてください。まあ、ものは試しに。
途中まではすいすい読めるはずです。61頁10行目の「この人は何を言っているのかしら」までは。
ところが、それ以降、途端につまづくようになります。
61頁12行目「今更、私の気持ちをかき回さないで欲しい」、63頁4行目「私を説得するために、ここで待ち伏せしたんでしょう?」などは、どう料理しても三人称体になりません。
ということは? どういうことでしょう。
『ジョアナ』の前半部分は三人称体にも一人称体にもなりうるのに対し、後半部分は一人称体にしかなりえません。これって…。
偶然、ということもありえます。前半部分は、たまたま、「私」を「瞳子」に置きかえて読んでも違和感のない文ばかりが並んだ、という可能性は十分考えられます。短編の、しかも半分ですから。
しかし私は、「『ジョアナ』の前半部分はもともと三人称体で書かれたものだ」という説を提唱します。
わかりやすい例を挙げると、60頁1行目〜2行目。これを「瞳子」に置きかえます。
部長はその場のただならぬ空気を感じて、瞳子に尋ねた。瞳子が何も説明しないでいると、今度は振り返って先輩Aに同じ質問をした。
ここはむしろ三人称のほうが通りがいい。「感じて」「振り返って」といった動詞が、部長の主観に寄り添っています。一人称よりは中立に近い、三人称体ならではの表現です。
今野氏は最初三人称で『ジョアナ』を書き出した。しかし61頁10行目あたりまで来たところで、「この作品は一人称のほうがいいのではないか」と気づき、急遽一人称に書き直した。そう仮定してみるとどうでしょう。
すると、60頁8行目と9行目で、主人公が「瞳子」になっている理由もわかります。喩えて言えば、白い紙の上にこぼされた二滴の黒インクではなく、もともと黒い紙を白く塗りつぶそうとした、その塗り残しです。『チェリーブロッサム』15頁14行目の「瞳子」、75頁13行目の「瞳子たち」に、いずれも「さん」を付け忘れたのと同じ理屈です。
『ジョアナ』の第一稿は、幻の『三人称ジョアナ』であった。それが私の仮説です。
(もっとも、これはレトリックレベルの解釈であり、物語レベルでの別の読み方、すなわち、瞳子は内心自分のことを「瞳子」と呼んでしまうことがある、といった読みを排除するものではありません)